英雄・小野田寛郎先生・特別講演会

小野田寛郎さんをお迎えして、特別講演会が開かれた。

参加した多くの人の歴史観が変わった日だった。人生において

劇的な進化と進歩を獲得した日だった。謦咳に接するという

ことの大切さを痛感した。我が人生最良の日だった。

 

平成24年新春

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

今年もなお多難な月日が続くと予想できる。

しかし、人間は困難にぶつかり、困難と戦ってこそ、強くなり、そして、賢くなる。

戦国の武将、山中鹿之助は言った。

「願わくば、我に艱難辛苦を与えたまえ」と。

 

日本人は、今、東北大震災という未曾有の困難といくさの最中である。

まだまだ戦いは続く。しかし、必ずや、この困難を克服できる。

われら日本人は、歴史上、あまたの困難を克服してきたからである。

 

この困難を克服する切り札・王道を教えよう。

それは憲法改正である。

この憲法が、すべての元凶であることを、日本人は覚醒しなければならない。

現在の憲法が存在するかぎり、復興は遅れる。

その復興も一時のものと終わるだろう。

 

東北大震災は戦後体制からの脱却を促しているのである。

古い殻を脱ぎ捨てよ、と日本人に問うているのである。

 

東北復興がなぜ遅々として進まないのか。

日本人の精神の復興を伴っていないからだ。

ヨーロッパの復興はルネサンスからだ。

ヨーロッパ人の精神の復興からだ。

 

復興は精神の復興を伴わないと本物ではない。

復興はモノの復興でない。モノの復興は一時的なもので持続しない。

日本人の精神の復興こそが、今後、100年の復興となる。

 

日本人の精神を象徴するものが日本国憲法である。

この憲法が、日本人を内向きし、消極的にし、臆病にしている。

強い日本、強靱な日本、精気あふれる日本を目指せ。

 

そのための大前提が憲法改正である。

憲法改正がないかぎり、日本人の精神の復興はない。

ゆえに、東北復興はない。まして、日本の復活はない。

 

平成24年1月10日(火)

日本政府の腰抜けぶり。

北朝鮮の不審船の乗組員の釈放。

 

なぜ、そんなに急いで釈放するのか理解できない。

野田政権の臆病さと軟弱さに怒髪天をつく。

 

乗組員は明らかに工作員である。

漁師でないのだから、漁具は最初からもっていない。

もっていたとしても、偽装である。

 

工作のための機器類は、舟が遭難し、

日本の領海にはいった時、捨てている。

偽装工作である。

 

日本側は分かっていたはずだ。

たぶん野田総理や民主党の腰抜け大臣どもが、

触らぬ神に祟りなし、とばかりに釈放させたのである。

 

もし工作員だったら、絶好のおとりであり捕虜であった。

拉致被害者との交換のための最高のエサだった。

 

交渉をせずに、すぐに解放する野田政権の頭の悪さと

腰抜けぶりに怒りを通り越して絶望を感じる。

 

すべからく民主党政権では日本の国益をいちじるしく害する。

民主党政権は一分でも一秒でも早く交代することを願う。

 

■平成24年1月11日(水)

日本女性はやはり着物だ、振り袖だ。

みごとなり、沢穂稀選手!

 

沢選手の振り袖は美しい。

園遊会の時、その美しさに目を奪われたが、

今回はさらに優雅さが断然光っていた。

 

外国に出たとき、日本人は日本人の伝統で勝負すべきである。

洋服姿では、欧米人には絶対に勝てない。

洋服は欧米人の伝統文化だからだ。

 

佐々木監督も、羽織袴で、参加すべきだった。

日本男児の服装は羽織袴と決まっているのだ。

タキシードを着てもしょせんは借り物である。

 

さらに、女子サッカーが立派なのは「なでしこジャパン」と名乗っていることだ。

そういう意味では男子は情けない。

男子は「さむらいニッポン」か「さむらいジャパン」とすべきである。

 

日本人は着物を着ると、堂々としている。

洋服ではオドオドしていた日本人が別人のようだ。

日本の政治家は、羽織袴で、外交交渉を行え。

堂々たる交渉ができるだろう。

やはり民族の歴史と伝統は無限のパワーを持っているのだ。

 

■平成24年1月13日(金)

警察、刑務所、官僚。

役人どもがたるんでいる。

 

オウムの平田が警視庁に自首してきたとき、門前払いをしたり、

台湾人の容疑者が連行中に自殺したり、

広島刑務所からシナ人が脱獄したり、

経済産業省のキャリア官僚がインサイダーをしたりと、

公務員の綱紀が弛緩している。たるみきっている。

 

そのくせに、箱根駅伝やマラソンの白バイの先導など、

警官がしなくてもいいことには熱心に取り組んでいる。

 

ゴジラ先生は箱根駅伝の沿線に住んでいるから、

白バイ警官の実態をよく知っている。

 

箱根駅伝では、神奈川県警の白バイ隊が、股野という引き継ぎ場所で

数十台の白バイをズラリと並べて、待機している。

警官どもは、新品のブルーの制服をきて、

いかにもうれしそうで、いかにも遊びのようで、たるみきっている。

 

あの姿をみるたびに、「こいつら、ガソリン焚いて遊んでいるのか」と

いつも不愉快である。

しかも、白バイ隊の警官どもは、どいつもこいつもブタのように

ブクブクと醜く太っている。

 

だいたい、白バイによるマラソンの先導など、先進国はもとより、

後進国でもありえない。

あんな無駄なことをしているのは日本くらいである。

 

あの光景をみると、

「日本の治安は大変悪く、マラソンも警官が護衛しないと開催できません」

と世界に恥をさらしているようなものである。

 

マラソンや駅伝の先導は即刻廃止せよ。

これはゴジラ先生が、30年以上も前から主張しつづけているが

一向に改まらない。

 

警官も公務員の代表的なもので、

昔陸軍、今警察であり、誰も注意できないのだ。

だからますます増長している。

その結果が今回の不祥事である。

 

■平成24年1月16日(月)

ことばの政治はやめろ

 

「定数削減」「歳費の削減」「不退転の決意」「痛みを伴う改革」

「遺憾である」「慙愧にたえない」「誠意をもって善処する」

「キチンとやる」「キッチリやる」「しっかりやる」

 

政治家という種族は、漢語オノマトペを乱発する。

漢語とオノマトペは曖昧語の代表である。

責任ある人間は使用に細心の注意を払う。無責任な人間は濫用する。

 

定数削減とは何人なのか。

100人なのか、200人か、300人か、400人・・・・何人なのか。

あるいは、議員を半減するのか、三分の二にするのか、三分の一なのか。

数字で示さないと曖昧であり無意味である。定数削減という「漢語」を

アホの一つ覚えのように叫ぶだけでは呪文でおわる。

 

不退転の決意というが、「不退転」を百万遍となえても呪文は呪文である。

そんな呪文をだれも信用しない。「遺憾である」と、一千万回、唱えても不毛な呪文だ。

「キチッとやる、キチンとする、しっかりやる」

とオノマトペを乱発されても、キチンと、キチッと、しっかりの中味がない。

ごみ箱に捨てられている汚れたペットボトルだ。 

 

民主党政治が代表するように、現代政治は中味のないことばの政治である。

これをペットボトル政治という。捨てられたペットボトルが、風に舞って

カラカラと音をたてている。

 

目標を数字で示し、時間スケジュールを提示しないと意味はない。

お題目か、呪文にすぎない。

定数の削減は何人やるのか、歳費の削減は何円なのか。期限はいつまでなのか。

今すぐか、一カ月後か、三カ月後か、半年後か。いつまでに実行するというスケジュールを示せ。

 

政治家のことばにはもう飽き飽きしている。

不毛なことばの遊びは鳩山と菅だけで打ち止めにしておけ

どじょう総理よ!

 

■平成24年1月17日(火)

あれから17年たつのか

 

阪神大震災から17年の歳月が流れた。早いものだ。

あの朝、テレビをつけたら、ヘリコプターからの映像で、

赤々と火がみえ、煙があがっていた。

一瞬、何が起きているのか、分からなかったが、

何か巨大な破壊が起こったことだけはわかった。

 

阪神高速道路が倒れている光景は目を疑うような光景だった。

文明の象徴である高速道路がうねうねと倒れている光景は、

多くの日本人に衝撃をあたえた。

こういう信じられないことが、現実に起きるということをはじめて

現代日本人に知らしめた。関東大震災を知らない現代日本人にとって、

阪神大震災は、現実の繁栄を覚醒させるに十分だった。

 

しかし、それから16年後に、東北大震災が起きるとは、

多くの日本人はよもやのことであり、想像すらできなかった。

震災は忘れた頃にやってくるということの、これが真の意味である。

 

二度あることは三度ある。大震災はいつでも、何回でも起きるのだ。

この列島に生きるかぎり、この宿命からは逃れられない。

人智の中のことは備えられるが、人智を越えることは天命に委ねるしかない。

しょせん人間は弱いものだ。天変地異の前には風前のともしびである。

 

われわれは、悟りにも似た心境で、毎日毎日を全力で生きるしかない。

そういう意味で「葉隠」の精神は大いに心強い。

葉隠は現代人の必読の古典である。

葉隠を読むと覚悟ができ根性がすわる。

大震災よ、どんと来いと。

 

平成24年1月18日(水)

野田総理を筆頭として、現在の国会議員では

国民は絶対に元気が出ないのだ

 

■一国のリーダーの役割は、国民を元気づけ、勇気づけ、働く意欲をかきたた

せることである。リーダーが「突撃!」と号令したら、国民が突撃するか否か

である。リーダーのもと一糸乱れず突進するか否かでリーダーの価値は決まる。

 

■しかし、歴代の自民党と民主党の総理では、国民は突撃する気にならないのだ。

野田ドジョウも例外ではない。人柄の良さ、誠実さは認めるが、リーダーは聖人

君子でなくてもいい。国民を幸福にしてくれる人が良いリーダーなのだ。

 

■最近の総理大臣は小粒になった。政治家が小粒になったからだ。しかも困るのは、

頭が悪いということだ。辞めた山岡、一川なんぞは、極めつけの頭の悪さだった。

こんなアホウが大臣とは呆れ果てる。国民が政治不信になるのは当然である。

 

■今回、防衛大臣になった田中直紀も同じだ。こんなボケ老人が国家防衛という

最重要大臣であるとは、もう冗談を通り越して、民主党政治は狂っている。

どこからどう見ても、知性のかけらもない。アホ丸出しの顔である。

 

■総理大臣も、各大臣も、少なくとも国民をはるかに上回る知性をもってなければ

困るのだ。大臣の第一の条件は、国民がその大臣を尊敬できるかどうかである。

畏れ敬う「能力」や「知性」や「技術」や「人間性」もっているかどうかである。

国民から軽蔑をかうような政治家は政治家以前に人間失格である。

 

■程度の低い総理大臣や各大臣をいただく日本国民は不幸である。現在の政治改革の

第一は何をおいても、国会議員の改革である。日本の政治システムをいったん御破算

にして、ゼロから造り直すことである。国会議員は、全員、辞表を出して辞めること

である。暫定政府を作って、明治維新のように、ゼロから創設する。

 

■テレビに映るアホな大臣どもを見ていると、それだけで失望する。野田ドジョウよ

政治改革とは、お前たち国会議員が全員辞職し、国会からいなくなることが前提だ。

国民は君達のような頭の悪い連中を、政治家として認めない段階に来ているのだ。

政治家が軽蔑されるという状態は日本国の最大の不幸である。

 

平成24年1月19日(木)

忙中閑あり、嵐の前の静けさか

 

今、日本は忙中閑ありという状態である。

難問が山積みしているのに、なんとなく平和である。

大震災とデフレと少子化で、日本はにっちもさっちも行かないのに

何だか平和である。

 

こういう平和は、嵐の前の静けさで、少し気持ちが悪い。

不吉な予感がするようでもあるが、何事もなければ良い。

ただし、いざという時のための覚悟と備えは万全にしたい。

何が起きても右往左往しないことだ。

平時からの心の準備が大切だ。

 

イタリアの豪華客船が座礁した。

乗客・乗員のうちただの一人として、大事故を想像したことはないだろう。

これが運命というものだ。

タイタニックと同じである。

まさかが起きるのが人生というものだ。

 

将来がどうなるかは、神のみぞしるである。

人間の存在なんぞはちっぽけなものである。

悠久の歴史と大自然のもとでは、人間は自信過剰にならないことだ。

人生も、運命も、将来も、なるようにしかならない。

ケセラセラである。

開き直りの精神でゆこうではないか。

 

平成24年1月20日(金)

運命

 

東北大震災で、紙一重で生き、紙一重で死ぬ。

そんな多くの運命をみた。

人間の運命はどうしようもないものだと無常を感じた。

ある夫婦の運命に無常をみた。

 

津波に襲われ、階段の上ににげた奥さんが手をのばし、

旦那さんがその手を握った瞬間、波にさらわれてしまった。

旦那さんが奥さんの手を強く握らなかったのは、奥さんをひっぱりこんでしまう

危険があったからだという。

 

神様は残酷なことをなさるものだ。

どうして夫婦を助けなかったのか。

一方が生き残り、片方が死ぬ。これほどの悲劇はない。

 

しかし、これも運命である。

運命には逆らいようがない。

予想できないのが運命だからだ。

 

だからこそ、日々を一所懸命に生きる。

悔いなき人生とは、毎朝毎夕、必死で生きることだ。

夜、目をつぶった時、かえりみて悔いなき一日だったかと。

 

平成24年1月23日(月)

女というものは・・・

韓流に熱中する女に、終戦直後のパンパンを思い出す

 

韓流とやらに熱中する女をみると、

日本の大和撫子も地に堕ちたものだ。

 

軽薄な韓流女どもが、歴史と伝統の日本の女の価値を貶めている。

哀れなものである。

新しい売国奴の誕生である。

 

かつて終戦直後、アメリカ兵に媚びをうり、

腕にぶら下がったパンパンを思い出す。

 

女というものは、安易に環境に流されるものである。

流行に騙される愚かな生き物である。

 

女は世の中の軽佻浮薄を先取りする生き物である。

女には信念とか哲学とかいうものはない。

 

男は自分の思想のために自決する。

信念と哲学のために飢え死にも辞さない。

 

しかし、女は決して思想のために自決しない。

女は信念や哲学というものを持ち合わせていない。

だから、女と小人は養いがたしと昔の人は言ったのだ。

 

韓流女という愚かな生き物を生んだ責任の一端は男にある。

男女平等などという虚構に踊らされて、女を甘やかしたからだ。

民主主義という偽善に騙されて女の教育を忘れたからだ。

 

すべからく女を甘やかせるとロクなことはない。

すべからく女は徹底的に厳しく教育すべきなのだ。

 

女という生き物は、かぎりなく動物に近い。

きびしく躾けないと、本能のままに暴走する。

それが韓流に熱中するアホな女の亡国の姿である。 

 

平成24年1月24日(火)

続・女というものは・・・

空間認識力が欠如している。

 

本格的に自転車を運転するようになって気がついたことは

女の運転のトンチンカンぶりである。

昨日も、夕方の恒例の10キロ走の練習をしていたら、

突然、脇道から女が運転する車が飛び出してきた。

 

ゴジラ先生が驚いたのは、女が左右を確認していないことだった。

片方だけをみて、飛び出してくるのである。

ゴジラ先生を見ずに、反対側だけをみて飛び出してきたということだ。

 

正確にいうと、

⑴左右確認よりも先に車のノーズを道路に突出させるのである。

⑵その後、車を止めるのである。

車が飛びすのが先で、左右確認が後である。

 

男は逆である。

脇道からおずおずとゆっくり出て、いったん車を止めて、

ハンドルにおおいかぶさるようにして左右を確認する。

 

今回の女は、突然、脇道から、車のノーズが先に飛び出してきた。

しかも、片方を見ながらで、ゴジラ先生をまったく見ないのである。

そして、反対側を見て、はじめてゴジラ先生の自転車に気がついて、

「アッ!」とびっくりしているのである。

 

自転車に乗るようになってから、脇道からの飛び出しには注意している。

今回も、脇道にさしかかったので、注意していると、予想通り、女が飛び出してきた。

女がゴジラ先生に気がつくまで二三秒あった。

女の行動を一部始終、観察していたから、余計に女の空間認識力の欠如に呆れた。

 

以上のことは、自転車を乗るようになってから、しばしば経験している。

多くの女のドライバーは、左右確認を正確にしていない。

⑴片方のみをみて脇道から飛び出す女、

⑵どちらもいいかげんに見て飛び出す女、

⑶車のノーズを先に飛び出させる女

⑷車のノーズの長さを計算しない女

 

「オイオイ、こっちを見ろよ!」と何回もつぶやいた。

 

今回の女も、左右をみない典型的な女だった。

車のノーズは、運転席よりも1メートル以上、道路に飛び出しているという空間認識がない。

自分の座っている席の位置からみている。

ノーズを計算にいれていない。

 

その他、

女は、自転車というものは左側を通行するものだ、という認識がまったくない。

右側も、左側も、自由自在に漕いでいる。

あっちにふらり、こっちにふらりである。

歩行と自転車を同じ感覚で乗っているのである。

正確にいうと、女の深層心理には、歩行感覚がある。

歩いているのと同じ認識である。