英雄・故小野田寛郎先生・特別講演会での思い出

小野田寛郎さんをお迎えして、特別講演会が開かれた。

参加した多くの人の歴史観が変わった日だった。人生において

劇的な進化と進歩を獲得した日だった。謦咳に接するという

ことの大切さを痛感した。我が人生最良の日だった。

 

我が友・田嶋幸三先生が

日本サッカー協会の会長になった

 

友の喜びに我は舞い

我が喜びに友は舞う

 

田嶋幸三先生は、ゴジラ先生の盟友である。

長年の戦友だ。肝胆相照らす仲と言ってもよい。

今、58歳である。協会は70歳定年だから、十年以上はある。

長期政権として、思い切った改革ができる。

日本サッカーはすばらしいものになる。日本サッカーは、

世界に伍して、グローバルな存在になるのは間違いない。

 

次は、国際サッカー連盟の会長をめざしてもらいたい。

金で汚れたFIFAを改革できるのは、田嶋幸三先生のような

清廉潔白な日本人である。

 

韓国の現代財閥のテイムジュンというアホ男が立候補しようとしたが、

汚職で六年間の資格停止になった。バンザイである。分限を知れと言いたい。

それにしても身の程知らずという言葉は、韓国人のためにある。

このテイムジュンという奴は、おのれを何様だと勘違いしているのだ。

国連事務総長のハンキブン(潘 基文)といかいうアホも同類だ。

 

田嶋幸三先生は、能力、識見、人望など、まれに見る逸材である。

リーダーとして、この人に匹敵する人材は政界にも官界にも経済界にもいない。

日本人として、グローバルに通用する稀有なる人材である。

 

口のうるさいことでは人後に落ちないゴジラ先生がいうのだから間違いない。

人間の能力を見抜くことでは、人には絶対に負けないと自負している。

ついに、日本にも本格的なグローバル人材が登場した。

本日は、記念すべき日だ。お目出度い日だ。祝杯をあげよう。

 

 

 

平成28年10月14日(金)

川井重勇の辞書には恥という言葉がない

 

昨日、都議会が閉会になり、小池知事が各会派に挨拶まわりをした。

おどろくことに、小池知事が就任した時、写真撮影を拒否したのが

川井重勇というアホ議員であった。今、議長だそうな。

 

このアホは、拒否したはずの小池知事と、一転して、両手でつつみ

こむように小池知事と握手した。しかも、媚びるような、へりくだる

ような、へつらうような顔をして、満面の笑顔を浮かべていた。

 

アホ議員・川井重勇の辞書には、恥という言葉がないらしい。誇りと

いう言葉も、矜持という言葉も、名誉という言葉も入っていないらしい。

まさに、昨日、幇間議員が誕生した。太鼓持ち議員の誕生である。

 

いやいや、それでは幇間や太鼓持ちに失礼である。幇間も、太鼓持ち

も、矜持をもって仕事をしている。「男芸者」としての誇りがある。

先日、テレビで、長良川の鵜飼で、幇間の修行中の若者を特集して

いた。幇間としての誇りと矜持を胸に一所懸命に修行していた。

男芸者として生きる覚悟を語っていたが、感動的な映像だった。

 

それに反して、都議会の三悪人・内田茂や、川井重勇や、高島直樹は、

人間のクズである。こいつらは、長年、密室談合を行なってきた闇政

治屋である。都議会を私物化してきた連中である。来年の都議選では

必ず落選させようではないか。もともと人間のクズだから、手のひら

を返すように、小池知事にすり寄ったのだ。人間以下の犬畜生である。

 

平成28年10月11日(火)

本日は新聞休刊日である。

が、これには文句がある。

 

今どき、休日を設けている公共の存在はない。

コンビニも、スーパーもインフラとして公共の

存在として、自覚している。中でも、新聞は、

公共の最たるものである。これが休日を設ける

などは言語道断である。

 

もちろん、新聞配達員がしっかりと休むことは

当然である。配達の人が休むことと、新聞が休む

のはまったく別問題である。コンビニは365日

開いているが、従業員はきちんと休日を取っている。

これはあらゆる業界で行なわれている常識である。

 

なぜ、新聞界だけが、このことができないのか。

新聞配達会社は、新聞社と別会社で、中小零細の

商店である。従業員を休ませるのは困難である。

商店が店を閉じると、商品(新聞)を配達する

ことができない。だから休刊日となるのである。

 

解決策は簡単である。たとえば朝日新聞本社が

新聞配達業者を援助すればいいのである。新聞

記者が、配達員が休日の時は、臨時に配達をす

ればいいだけの話である。そうすれば、新聞配

達店は店を閉じる必要はないのである。配達員

も安心して休めるのである。

 

しかるに、21世紀になっても、新聞休刊日と

いう時代遅れの事態がまかり通っている。情報

時代に新聞が休刊するのは、ありえない事態で

ある。新聞社は、自分たちが、日本の情報を担

っているという究極の使命を自覚していないの

である。危機意識なんぞまったくない。

 

結局、新聞社が、配達店のために新聞記者を臨

時に派遣したり、配達会社の経営を肩代わりす

るのが嫌だから、すなわち、コストがかかるか

ら新聞休刊日という悪しき伝統が続いている

のである。

 

新聞記者という連中は、エリート意識は強いが、

新聞配達という額に汗する労働なんぞしたこと

がない。本社のエアコンが効いたデスクに座っ

ているか、偉い政治家のもとで、かっこよく

インタビューしているのである。泥臭い仕事な

んぞ、新聞記者とはまったく縁がない。政治家の

ご機嫌をとり、腰巾着となり、いずれ自分も政治家

となるのである。新聞記者出身の政治家がいかに

多いか。ここに彼らの本性をみるのである。