英雄・故小野田寛郎先生・特別講演会での思い出

小野田寛郎さんをお迎えして、特別講演会が開かれた。

参加した多くの人の歴史観が変わった日だった。人生において

劇的な進化と進歩を獲得した日だった。謦咳に接するという

ことの大切さを痛感した。我が人生最良の日だった。

 

緊急提言 
★元号は国民投票で決めるべし★
★元号の制定方法に異議あり★


■元号の制定にあたり、中国古典とか、日本古典とか、アーダコーダと、
政治家や学者や文化人とかいうアホウどもがしたり顔で言っている。
冗談ではない。国民をほったらかして、元号の制定はあり得ない。
元号の候補を発表し、国民投票で決定せよ。それがデモクラシーである。

■元号を使うのは、国民であって、政治家でもなく、お役人でもなく、
文化人でもなく、宮内庁の役人でもない。巣鴨のとげぬき地蔵にお参りする
オバチャンが使うのだ。法善寺の水かけ不動に水をかける若い男女が使うのだ。

■政府や学者が勝手に決めるなどは言語道断である。戦後七〇年を経て日本が真の
デモクラシー国家と言えるならば、元号の制定は、その試金石だ。もし、元号を政府が
勝手に決めるならば、その元号は、天皇陛下の大御心すなわち国民の心に反している。

■ついでに言うと、元号などは、もったいぶらないことだ。上から目線で偉そうに
教訓をたれないことだ。元号も記号である。国民が使いやすく、そして、国民を元気
づける元号であるべきだ。ゆえに、我が戦略大学が提案する元号は、
元気か、幸福か、勇気である。

元気元年
などと言うと、それだけで元気になる。
幸福元年などと言うと、それだけで幸福になる。
勇気元年などと言うと、それだけで勇気がでる。

■元号はもったいぶらないことだ。国民を元気にし、幸福にし、勇気を与えればいいのだ。
ただそれだけだ。元号は記号なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。

平成31年3月28日(木)
元号を勝手に決めるな

元号の制定について、有識者とかいう連中を選んで懇談会をつくるそうな。
元号の制定を特定に人間に任せるな。理由は元号は国民のものだからだ。
総理大臣にも、政治家にも、文化人にも、学者にも、元号を決める権限はない。
なぜ゛政府は勝手に進めるのだ。どういう権限があって、強引にやるのだ。

ゴジラ先生の次の方法を提案する。
➀広く国民から元号を公募する。
②その中で最も多い元号を10選ぶ。
➂それを国民投票にかけて決定する。
この方法が一番公平である。デモクラシー国家にぴったりである。
誰からも文句がでない。

今の方法は、国民の希望や意思を無視している。「平成」を決めた時は、
国民の意識も成熟していなかった。お上が決めるものと思っていた。
国民は、お上が決めたものを、ありがたくいただくという存在だった。
しかし、時代は変わった。国民が意思を明瞭に主張する時代になった。
民主主義も成熟してきた。政府が勝手に決める時代ではない。
今からでも遅くない。公募をせよ。いずれにしても、政府が勝手にやるな。

元号の制定などは、安倍政権の支持率を上げる絶好のチャンスである。
それしても、安倍さんの周りのスタッフは頭が悪すぎる。少しは知恵と
アイデアを出せといいいたい。君たちは、税金でメシをくっているのだ。
しっかりと働け、頭を使え、身体を使え、国民のために一所懸命に働け。

平成31年3月27日(水)
高校野球がつまらん
高校野球のルネサンスを提案する

高校野球を見なくなって久しい。昔はテレビにかじりついて見たものだ。
しかし、いつのころからか、巨大私立高校が全盛になり、地方の公立高校
が出場しなくなった。まして、優勝など夢の夢になった。ゴジラ先生は
この現状を高校野球の終焉と思っている。

ゴジラ先生の出身地の徳島県では、ご存知の池田高校や徳島商業や鳴門
高校が強かった。甲子園の常連だった。幸い徳島県には巨大私立高校が
ないので、今も公立高校がでている。今年は21世紀枠で富岡西高校が
出場した。質実剛健が富西の校則である。

四国は、徳島県の徳島商業、香川県の高松商業、愛媛県の松山商業、
高知県の高知商業、四国の四商が覇を競っていた。しかし、高知県には
明徳義塾、香川県には尽誠高校、愛媛県の済美高校ができ、四商が
出る幕がなくなっている。明徳義塾などは地元の人間でも、高知の高校と
認めてない。人里離れた半島に、落下傘が舞い降りたごとく創設した高校
である。元横綱の朝青龍など、クソ野郎が出身である。

巨大私立高校の全盛が続く限り、プロ野球予備校としては良いだろう。
しかし、昔からの高校野球フアンは、しらけて、離れるだけである。
日本を支える底辺の力は郷土愛である。巨大私立高校では郷土愛は生まれない。
江戸時代から続く郷土愛こそ日本の力の源泉である。全国津々浦々に藩が
存在し、薩長など各地に優れた人材が誕生した。明治大正昭和と旧帝国陸軍
の精強の源泉は郷土連隊だった。それを引きついだのが高校野球の郷土の高
校である。今、歴史的に連綿と続く、郷土愛を象徴するものが失われつつある。

高校野球を郷土代表とするためのゴジラ先生のアイデアはこうだ。
各県は各県出身者でチームを編成する。たとえば徳島チーム、香川チーム、
高知チーム、愛媛チームを編成し試合を行うのである。巨大私立高校の選手
は、各県の代表として出場するのである。全チームは、どこかの県の出身選手
ばかりで編成することになる。郷土代表チームによる対抗戦となる。昔の
高校野球の復活である。これぞ高校野球ルネサンスである。

平成31年3月26日(火)
森昌子の引退に異議あり
フアンを利用するだけ利用して
敵前逃亡である。


森昌子よ、芸人に引退はない。死ぬときが引退だ。
森昌子よ、芸能人は、お客様あってこその存在である。
森昌子よ、お客様は、お前の金儲けの手段ではないぞ。
森昌子よ、お前のフアンは、キャッシュディスペンサーか。
森昌子よ、お客様は、お前を育ててくれた大恩人である。

再デューした時、子供を育てるため、そして生活のために
再デビューすると言ったはずだ。しかるに、金を儲け、自分の
目的を達したら、さっさと引退するとは、ジコチューの極みだ。
それでは再デビューした後、お前を支えたフアンはいったい
なんだったののだ。お前のための現金支払機だったのか。

何たる勝手な女だ。芸能人には引退はない。死ぬまで芸を突き
詰めるのが芸人である。なぜか、芸能人や芸人はお客様あって
の存在だからだ。お客様をほったらかして、引退することを
敵前逃亡というのだ。銃殺刑である。

森昌子は、世間を舐めている。再デビューで成功したゆえに
お客様というものを手段として見たのである。いつでも利用
できる手段、現金支払機とみたのである。森よ、お客様は
手段ではない。世間を舐めてはいけない。天罰が下るだろう。

お客様は芸人の最終目的である。お客様のために、死ぬまで
尽くすのが芸人の使命である。芸人は、一人で芸を追及して
いるのではない。同志として、お客様と一緒に芸を磨くことが
芸人である。芸人になった以上、死ぬまで芸人である。
森よ、結局、お前はお客様を踏んだり蹴ったりしたことになる。
芸人の風上にも置けぬ外道であり、餓鬼道に堕ちた女である。

平成31年3月15日(金)
芸人のおごり

ピエール瀧とかいう俳優・歌手がコカインで逮捕された。
またかと思った。つい最近は、俳優の朴慶培(通名・新井浩文)が
強姦で逮捕されたばかりである。瀧も朴も二流三流のの芸人である。
朴はいかにも韓国人の犯罪である。韓国は強姦が多い国である。
女性の韓国への渡航については、注意喚起している国もある。

瀧についても、最初、こいつは韓国人ではないとかと疑った。
善良なる韓国人には悪いが、韓国人というのは、世界的にも
評判が悪いのだ。傍若無人である、威張る、怒鳴る、文句をつける、
怒ると、まさに火病である。北朝鮮は日本人を拉致する。原爆を
開発する。ミサイルを作る。国民を虐殺する。強制収容所に入れる。
国民を餓死させているのに、親分の金正恩はブクブクと超肥満である。

朴慶培やピエール瀧を見ていると、芸人のおごりを感じる。
二流三流のくせに、自分を何様だと思っているのだ。芸能人だ、
俳優だと言えば、世の中、通用すると思っているのか。
また、吉本などには、たかがお笑い芸人のくせに、傍若無人な人間が多い。
たとえば街中の商店をひやかしながら歩く番組などでは、道路を横に
広がって、大声で笑いながら、ふざけながら歩いている。

芸人は、自分達を特別な存在と思っているらしい。大いなる錯覚である。
芸人である前に、人間として謙虚であれ。朴慶培やピエール瀧には、
おのれが川原乞食の芸人であることを忘れて特別な人間だと、錯覚して
いたようだ。思い上がりもはなはだしい。芸人は芸人に徹してなんぼである。

とくに東京は、芸能人に甘い土地柄、風土であるから、余計に増長する
のである。芸能人や俳優や女優という呼び方をやめて「芸人」に統一する
ことを提案する。芸をする犬を「芸犬」と命名し、芸をする人間を芸人という。
同じ範疇である。芸人は芸犬のように芸に徹しろと言いたいのだ。えらそうに
芸術論や演劇論をのたまう前に、芸とは何か、徹底的に研究し実践しろ。

平成31年3月13日(水)
とんでもない判事がいる

名古屋の家庭裁判所の男性判事(55歳)が、反天皇の集会に参加していたそうだ。
産経新聞3月13日、本日の記事である。とんでもない阿呆だ。こういう奴は、即刻、
資格を剥奪してクビにしろ。国家から給料をもらっている公務員として、あるまじき
行為である。日本国とは、天皇陛下が国家元首であり、日本国を象徴し、代表している
のである。その天皇陛下を侮辱することは、日本国民を侮辱することである。

たとえそんな論理を出さなくても、天皇陛下とは、庶民にとって、ありがたい存在なの
である。三島由紀夫は嘆いた。「などてすめらぎはひととなりたまいし」と。天皇陛下
とは神様でもあるのだ。神性をもっているのだ。ゆえにありがたい存在であるというのは、
二千年間の日本の庶民の素朴な感情である。

日本の天皇が偉大なのは、二千年間、ただの一度も独裁者でなかったことだ。これぞ世界
史の中の奇蹟である。こういう権威ある存在だからこそ、庶民は素朴に天皇を崇拝し尊敬し
ているのである。そのことが分からぬ、この裁判官は日本人ではない。朝鮮人ではないのか。

法曹人には、数多くの左翼人士や朝鮮人や中国人が紛れ込んでいる。学生時代、左翼運動を
やり、就職できないから、司法試験を受けて、法曹人になったのである。弁護士連合会は、
その代表である。最近、韓国人を副会長に任命した。まさに暴挙である。韓国人も弁護士に多い。
大学教授にも多い。試験に受かりさえすればなれるからである。

これが日本の甘さであり、しずかに、そして、いつまにやら、左翼法曹人や韓国人や中国人に
よって、日本が侵略されているのである。日弁連や韓国人・朝鮮人の団体の行動に注意するこ
とが重要である。とくに朝鮮人には、決して気を許してはならない。裏切りを常態とするのが
朝鮮民族だからである。人を拉致し、実兄を毒ガスで殺害するのが朝鮮人である。これは人間
の所業ではない。鬼畜の仕業である。

平成31年3月11日(月)
労働者を舐めんなよ

ゴーンに変装させた高野隆弁護士が、ゴーンの名声に傷をつけた
と謝罪したそうだが、オイオイちょっと待てと言いたい。
作業着が
人の名声を傷つけるとは、聞き捨てならない暴言である
労働者諸
君に対する最大級の侮辱である。弁護士という人間の上から目線の
姿勢がよく分かった発言である。

弁護士という連中のエリート意識に非常に腹がたつ。テメエ達は、
自分を何様だと思っているのだ。弁護士とは、しょせん幇間か、太鼓
持ちである。とくに金持ち奉仕する嫌らしい職業である。貧乏人や
労働者を相手にしないゲスな職業である。ゴーンに変装させた高野隆
の頭脳はあの程度である。変装に文句をつけた巣鴨のオバチャンの方
がはるかに立派だ。人間の価値を決めるのは、豊かな人生経験である。
試験や偏差値ではない。
経験は偏差値に勝る。おばちゃん、バンザイ。

日本では、弁護士が過大に評価されている。弁護士の数が少ないから
エリート意識がふんぷんとして、鼻もちならない。アメリカ120万人
イギリス14万人、フランス六万人、ドイツ16万人である。日本は
わずか3万7千人だ。弁護士とは「よろず請負家業」にすぎない。
別にエリートではない。弁護士も無数の職業の一つである。高野隆など
弁護士どもは、労働者を下に見て、自分達を偉いと錯覚している阿呆である。

日本では、日弁連が合格率をきびしくし、弁護士が増えることを徹底的に
制限しているのである。ゆえに競争がないから、アホな弁護士が生き残り、
威張っている。激しく競争をさせないと、優秀な人間が育たない。弁護士
の合格率を下げろ。弁護士の人数を現在の3万7千人から10万人に増やせ。
そうすると、高野隆のようなアホ弁護士がいなくなるだろう。ついでにい
うと、日弁連(日本弁護士連合会)は、真っ赤な左翼集団である。しかも
今回、なんとなんと、韓国人を副会長にしたのだ。日弁連とは大馬鹿野郎の
売国奴の集団である。日弁連をぶっ潰せ。

平成31年3月8日(金)
ゴーン君、威風堂々と
挨拶すればよかったのだ


ゴーンの扮装は高野隆という奇をてらう弁護士の発案であった。
どっからどう見ても、大失敗だった。満天下に恥をさらしただ
けである。下手な猿芝居だった。策士才に溺れるである。すべて
物事は正々堂々とやることだ。猿芝居をするな。策を弄するな。

あの場面では、カルロスゴーンは、拘置所の前で、威風堂々と、
挨拶すればよかったのだ。脚立の上か、ミカン箱の上に立って、
「全国の皆さん、ただいま出所しました。大変御心配をおかけし
申し訳ありませんでした。私は無罪ですから、これからそれを
立証いたします。このような不当な国策捜査を国際的に訴えて
まいります。今後ともよろしくご支援をお願い申し上げます」
と、正々堂々と挨拶すれば、さすがゴーンだと言われただろう。

それにしても、思い出すだけでも、ゴーンちゃんの作業着姿は
吹き出したくなる。変装は大失敗だったが、国民一人一人の目に
やきついて、しばらくは話のタネになる。お笑い芸人は、さっそく
取り入れてやっているだろう。あれをネタにすれば、しばらくは
食っていける。カルカル・ゴンなどと言う芸名をつける芸人が
登場するかもしれない。日本名で「軽る軽る権(かるかるごん)」
というのはどうだ。。

日本の司法は人質司法である。容疑が固まっていないのに、
逮捕し、勾留して、自白を強要するのである。自白を有力な
証拠とするのは、あまりにも前近代的である。江戸時代ではない。
客観的、論理的、科学的な証拠に基づいて、有罪か無罪を立証
することが大前提である。そういう意味では日本の司法とくに
検察は権力を笠に着て、人間を人間以下に扱っている。カルロス
ゴーンも疑わしいからこそ、推定無罪であるという前提で、接し
ないと、とんでもない人権侵害になる。ゴーンも人なり、怪物で
はない。まして韓国人ではない。ここは韓国ではなく北朝鮮でも
ない。デモクラシーの花咲く日本である。

平成31年3月7日(木)
作業員姿に変装した
カルロスのゴーンちゃん、
そりゃマンガだ。
それをやっちゃおしめえよ。


策士才に溺れるとはこのことである。
カルロスゴーンが保釈されて拘置所から出てきた。
しかも、「ヘンシーン(変身)!」と作業着のオッサンになっていた。
当人は変装のつもりだったろうが、変装になっていない。あれはマンガだ。
思わず噴き出した。大爆笑だった。しかも乗った車が、日産でもなく、
ルノーでもなく。スズキの軽ワンボックスカーだった。もう腹をかかえて
笑い転げるしかない。

ゴーンという国際的な大秀才と、弘中という日本を代表する秀才弁護士、
二人の大秀才が、寄ってたかって、一所懸命に考え工夫したのが、
あの変装だったとは。あまりの頭の悪さに、あまりの凡庸に、驚き、桃ノ木、
山椒の木、ブリキに、タヌキに、蓄音機である。

カルロス・ゴーンはグローバル企業経営の場、弘中は法曹界という場、
こういう見栄えのいい場所では一流だった。しかし、庶民の場では、
ただのオッサン以下だった。オッサンでも、オバサンでも、あんな
恰好の悪いことはしない。あの作業着姿で拘置所から出てきたら
アホにもバカにもチョンにもばれる。あまりの見え見えの芝居に、
こいつらお笑いを取るためにやっているのかと思ったくらいだ。

歌舞伎ではないが、ゴーン流の大見得を切ろうと思った矢先だった。
しかるに、つまづいて、ずっこけた。
あの場面は植木等の出番だった。
「お呼びでない、こりゃまた、失礼ーしーまーしーたーーー」
今回のドタバタ劇は、子々孫々まで語り伝えられるお笑い劇場と
なってしまった。策士、才に溺れるとはこのことだ。

平成31年3月6日(火)
昨日の続きとして
旧制高校の中でも、そのバンカラが際立っていた
鹿児島・第七高等学校造士館の巻頭言と歌詞を披露しよう。
造士館では、全員がフンドシ姿になり、肩を組み、
輪になって、北辰斜めを歌い踊るのである。
まさに天下は俺のものという気概である。
しかも、これは鹿児島造士館だけでなく、全国の旧制高校でも
同じように寮歌や逍遥歌を、歌い踊って、青春を謳歌し、
天下国家を背負う意気をしめしたものである。
これが明治以降、大日本帝国という世界史に残る偉大な
国家をつくりあげた原動力となった。
ゴジラ先生は、このバンカラこそが、日本を再び坂の上の雲を
目指す国家の原動力であると確信している。
バンカラの復興・ルネッサンスを目指そうではないか。

■北辰斜め(ほくしんななめ)
第七高等学校造士館・第十四回記念祭歌
簗田勝三郎作詞・須川政太郎作曲

《巻頭言》
流星落ちて住む処、橄欖(かんらん)の実の熟るる郷(さと)
あくがれの南(みんなみ)の国につどいにし三年(みとせ)の夢短しと
結びも終えぬこの幸を
或いは饗宴(うたげ)の庭に、或いは星夜の窓の下に
若い高らう感情の旋律をもて思いのままに歌い給え
歌は悲しき時の母ともなり、嬉しき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め

北辰斜めにさすところ
大瀛(たいえい)の水、洋々乎(ようようこ)、
春花(はるはな)薫る神州の
正気(せいき)は罩(こ)もる白鶴城(はっかくじょう)
芳(ほう)英(えい)永久(とわ)に朽ちせねば、
歴史も古(ふ)りぬ四百年(しひゃくねん)

紫さむる黎明(しののめ)の
静けき波に星数え
荒涼の気に咽(むせ)ぶとき
微吟消え行く薩摩潟(がた)
不屈の色もおごそかに
東(ひがし)火を噴(は)く桜島

悲歌に耳藉(か)す人もなく
沈み濁れる末の世の
驂鸞(さんらん)の夢よそにして
疾風迅雨(じんう)に色さびし
古城の風に嘯(うそぶ)ける
健児七百意気高し

南の翼(つばさ)この郷(さと)に
三年(みとせ)とどまる鵬(ほう)の影
行路(ゆくて)は万里雲湧きて
雄図(ゆうと)もゆる天(あま)つ日や
首途(かどで)の昔叫びにし
理想の空に長駆(ちょうく)せん

ああ若き日の光栄は
今年十四の記念祭
祝うもうれし向上の
旅の衣にちりかかる
樟(くす)の下露清けらく
今日南溟(なんめい)の秋にして

平成31年3月5日(火)
日本の古き良きエリートは
どこに行った

冬着たりなば、春遠からじというが、まだまだ春は遠い。
我が家の庭の梅は咲いているが、雨に打たれたままで
である。晴天のもとで満開の姿を見たいものである。

本日も、四時半から暗唱ウォーキングにでかけた。
雨は降っていなかったが、風は冷たかった。それでも
10分も歩くと、体は温まってくる。さらに歩くと
汗がじんわりと出でくる。

最近、暗唱しているのが、かつての旧制高校の寮歌や
逍遥歌の前に述べる「口上」すなわち「プロローグ」
「巻頭言」である。旧制高校生は、歌を歌う前に必ず
口上やプロローグや巻頭言を朗々と高唱する。
これが旧制高校の歌の特色である。

旧制高校の歌や口上は青春時代におけるバンカラを謳歌し、
人生の希望や夢を語るものである。かつての日本の良き
エリート達がもっていた意気軒高たる精神である。ひる
がえって現代の日本には真のエリートがいなくなった。

民主主義という名のもとにみんなが大衆化してしまった。
かつての若者は、江戸時代のエリーとしての武士階級の
再来であった。維新の志士、旧制高校の若者、日本の古き
良きエリートはどこに行った。どこに消えた。

平成31年3月1日(金)
トラちゃんとデブ金の勝負は
水入りである。これでよいのだ。


トランプとデブ金の勝負は水入りだった。韓国の失望が目に
見えるようだ。文在寅は、米朝の間を取り持ち、朝鮮半島を
デブ金と二人で仕切って、反日の拠点にしようとしたが、
そうはいかない。朝鮮半島への熱気は一気にさめるだろう。

だいたいデブ金にとっては、韓国は手段にすぎない。デブ金
の先にはアメリカと日本がある。この二つの国から援助を得て
朝鮮半島のリーダーシップを取ろうとしている。文在寅なんぞ
は眼中にない。昨年、板門店で抱き合ったのは、ポーズである。

朝鮮半島の統一はない。彼らは、必ず、仲間割れをする。いずれ
ケンカをする。それが朝鮮民族のサガである。南北は、半永久的
に分断国家のままである。日本は朝鮮半島とは関わる必要はまっ
たくないが、南北を競わせ、争わせ、日本有利にすることである。
それが日本の国家戦略である。

これでトラちゃんの朝鮮半島熱もだいぶ下がるだろう。朝鮮半島で
ノーベル賞を狙ったが、無理だった。それよりも、自分の頭のハエ
を追うことだ。大統領としての足元がぐらついている。足元を固め
ることが先決だ。アメリカフアーストの原点に返るだろう。いずれ
にしても、朝鮮半島に対する熱気が冷めることは、日本にとって
大変良いことだ。米朝会談の決裂、大いに結構だ。